21世紀型教育のススメ

東京都文京区の学習塾ESCA、大学や専門家と連携したマグネットスクール、教材作成などを手がける会社(エスカルチャー株式会社)の代表取締役のブログです。

学校のテスト採点に関する議論が的外れだと感じる件について②

昨日学校のテスト採点に関する記事についてブログを書いた。

【元記事】

http://tiger-news.net/189

【昨日のブログ】

http://athrilleducation.hatenablog.com/entry/2017/04/11/202248

 

授業の合間に急いで書いてしまったのと、自分で読み直してちょっと伝わりにくいかなと感じたので、追記しようかなと思った次第。

元記事では、学校の算数のテストで、かけ算を習っていない学年の生徒がかけ算を使ってしまい、誤答とされているのはおかしいという論調で書かれている。それについて昨日の記事では、採点根拠をしっかりと書かなければならないということを書いた。

 

言いたかったこととしては、「習ってないことを使って正解を導きだしたのに間違いにするのはおかしい」という世論に流され、「じゃあこれからは習ってない方法で解いても正解にしちゃおう!」という単純な思考に走らないでほしいということだ。

 

そんなことをしてもまったく意味がない。私の個人的な考え方としては、教育というのは正しい、正しくないというよりも、首尾一貫していることが大切だと思うからだ(なぜなら、「この教育が正しい」ということを定義づけることができる人なんていないと思うから)。でなければ、感受性豊かな子供達は混乱してしまう。

私個人としては、"受験勉強では終わらない社会で活きる力を養う"ということを謳っている以上、社会に出たときに混乱しないような教育をすべきであるし、せっかく頑張った勉強であるから、その経験が社会人生活に活かすことができれば良いと考えている。そのためには、テストといえど、その考え方には社会に出たとき同様の一貫性がなければならない。

 

では今回の例は社会のどのようなところに当てはまるのか。発注者と受注者間の仕様書を考えてみれば分かりやすいのかなと思った(ビジネスマン以外には逆に分かりにくいか・・・)。

仕様書というのは、発注者が業務を発注する際に、「こんな条件で業務をお願いします」という条件を記述したものであるが、テストで言うと、先生が生徒に対して仕様書を出して業務を発注するという具合である。例えば納期は50分、回答欄に収まるように記述すること、などのような条件がテストという仕様書には書かれている。

もちろん納期が過ぎれば減点の対象であるし、そもそも納期後は作業すらさせてもらえない。回答が適用可能な仕様を満たさない場合、規格外とされても文句は言えないのである。

 

元記事の例でいうと、足し算で解かなければならないということは、仕様書には書かれておらず、ゆえにそれを規格外とするのは発注者である先生のミスなのである。「暗黙の了解」として習ったものしか使ってはならないなどと言うのは、社会に置き換えた場合は通用しない。

では先生は今後、習っていないものを使って解くのは正解にすれば良いのかということは、冒頭でも書いたが、よく考えなければならない。前記事でも書いた通り、公教育の先生は、自分が教えたことが生徒に理解されているかということを確かめる義務がある。でなければ、公教育の意味がない。なぜならば、点数や単位を与えたり、卒業させたりというのは、その子がそのレベルに足る“理解を得ている”ということを保証するものであるからだ。

このような理由から、前記事ではこの問題においては、問題文に「ただし学校で習った方法で解くこと」という一文を加えるべきだと結論づけた。

 

さて、これらのことを考慮した上で仕様書の話に戻ろう。今度は、先生がテストに「ただし学校で習った方法で解くこと」と書いたときを考えてみる。これを書くと、生徒は自由な発想ができないではないか!となるかもしれないが、前記事では、制限のある中で課題にアプローチするということも必要であるし、問題文をきちんと読んで理解することも重要だということを書いた。

では、生徒は折角予習したかけ算が使えないのか、と言われればそうでもない。これも先ほどの発注者と受注者の関係で考えてみる。発注者が制限をかけた条件の中で、受注者がそれに逆らい、より良い業務を遂行した場合である。この場合、問題となるのは受注者、つまり生徒側のリスク管理である。

受注者側としては、それがいかに効率的な業務であっても、仕様書条件に逆らっている以上、発注者側の制限条件の都合(この場合、先生が教えたことを理解しているかということを、テストで確認すること)で規格外とされても文句は言えないのだ。しかし、仕様書通りの条件で、納期内(テスト時間内)にかけ算と足し算の2通りの案を示すことができれば、発注者である先生はもしかしたら認めてくれるかもしれない。このように、生徒側の心持ちでチャレンジすることはできるということだ。

逆に、これでバツになったからといってしょげてしまうようでは、どのみち将来大成はしないだろう。厳しいかもしれないが、子供ながらの意見で良いので、先生に意見をしに行くくらいのことはしてほしいと思うし、私個人としてはそのディスカッションこそが社会でいきる力につながると思う。まわりの大人達は教育方針を評価するのではなく、子供達がしょげてしまわないように導いてあげることが大切だと思う。

※ちなみに元記事の子はちゃんと先生に意見しに行った模様。一番問題なのは、この時の先生の対応(暗黙の了解で、習ったことしか使ってはいけないという理由で誤答としたこと)である。

 

学校の先生と言えど、ここまでされたらさすがに正解にするとは思う。もしそれでも意固地に誤答とするなら、それが教育として不正解かどうかは分からないが、少なくとも私とは教育理念が合わない。

 

最後に、あくまでもこれらの意見は、私の教育における理念(社会で活きる力を養う)に当てはめた場合のものである。教育は千差万別で、普遍的な正解を導きだすことが難しいものであるからこそ、消費者の側にもどのような教育を受けさせるべきかということを、ご家庭の教育理念と照らし合わせて選んでもらえたら幸いである。