指導要綱改定について
雑談記事です。
2022年から文系数学においてベクトルがなくなるというのは聞いていたけど、どうやら数cが復活してベクトルはその中に入るようだ。
じゃあベクトルの代わりに何学ぶねん、となるわけだが、ここにはなんと統計が入ってくるようだ。
今でも平均、分散、四分位範囲や相関係数など、データ分析の基礎は範囲に入っているが、どうやら2022年度からは、大学1、2年で学習する仮説検定も範囲に入ってくるぽい。
素人が第1回人工知能EXPOに行ってきた感想
前々から人工知能というものに興味を持っていたので、人工知能EXPOに行ってきた。本業は教育者であるが、教育とはまったく違った観点からAIに興味を持っていたこともあり、今日は教育者という立場で行ったのではないということを、先に申し添えておく。では、ずぶの素人から見た人工知能の展示会について、所感を書いていこうと思う。
※ちなみにディープラーニングとか専門用語を、素人が軽々しく言ってしまうことに対して個人的に少々の抵抗があるので、ちょっと頭の悪い人みたいな文章になっています。また、節々で「いや、それは違うでしょ」というところがあるかもしれませんが、あくまで素人の感想なので、温かく見守ってください。
1.需要と供給のバランス
会場について、まず最初に思ったのは、AIの市場として、需要と供給のバランスが合っていないということだった。とはいえ、これだけ話題になっていることであるので、私のような野次馬的な人達も多いのであろう。会場に入るには受付手続きをしなければならないのだが、出展者や会場に比べて入場者が多いのか、臨時の受付ブースが1つではなかった。
中に入るとさらに人ごみが凄かった。通路は人が満杯で、企業のプレゼンを聞くどころではない。端で出展している企業に関しては、パンフレットを貰うのが関の山であった。
野次馬も多いとはいえ、AIに関してのニーズは高い。それも、製造業やゼネコン、エネルギー系など巨大な金額のプロジェクトを持った企業との親和性が高いだけに、今からでもAI市場に乗り込んで勝負したい衝動に駆られる。
2.今後の主流はプラットフォームビジネス
ざっくりと会場を見て回って思ったのは、今のAIの主流は大きく分けて2つあるということ。1つ目は学習済みAIの提供、2つ目は未学習のAIを、ユーザに合った形で学習させるプラットフォームの提供である。
AIと聞くと、「知ってはいるけど、どうせ優秀なプログラマー抱えてるところしか使えないんでしょう。うちは関係ないな。」という人が大多数であると思う。事実、自動運転、画像のタグ付け、Siriなど、大企業がAIに学習させ、提供している商品を購入することくらいしか、自分個人としてAIの恩恵を受けたと感じる場面はないのではなかろうか。
AIの主流のうちの1つ目は、確かにそのような「学習済みのAIの提供」であった。学習済みであるから、消費者や企業も簡単に恩恵を受けることができる。しかし、学習済みのAIというのは、使うのは簡単だが、カスタマイズが難しい。自分自身(自社)の恩恵を最大化するには、AIの学習から手をつけ、最適なAIを作らなければならない。そこで登場するのが、誰でも(というのは言い過ぎかもしれないが・・・)使えるAIの学習プラットフォームの提供である。
実をいうと前々から、googleが一般向けにAIの学習ができるツールを公開している(テンソルフロー)。しかし、これに関してはpythonと呼ばれる言語を使えなければ学習させることができない。それでは企業として気軽にAIを使えるということにはならないのだ。理想型は、自分自身や、自社で抱える専門家が、直接AIをカスタマイズできるようなになることである。
3.プラットフォームの提供により専門家が自分の領域で勝負できる
私が今回一番興味を持ったのは、東工大発のベンチャー企業である株式会社クロスコンパスである。同社が提供するプラットフォームのプレゼンテーションも拝聴したが、他のプラットフォームよりも簡単に使えそうなものだった。簡単に使えるということは、機械学習をさせる段階でプログラマーを必要としないということで、これは企業にとって非常にメリットが大きい。これには2つの理由がある。
1つ目の理由は、プログラマーに支払う外注費用を削減できるという点である。自社の人員で機械学習ができるのであれば、外注する必要はない。日本で一番高いのは人件費なのだから、これは大きなメリットである。
2つ目の理由は、専門家の思考をダイレクトに活かせるということである。これは通訳みたいなもので、間にプログラマーが入ると、専門家の思考にバイアスがかかってしまう恐れがある。優秀なプログラマーであれば、このバイアスは少ないのだろうが、それでも直接思考を反映させるのであれば、専門家が直接機械学習の段階から扱えるにこしたことはない。
このように、今後AIを提供する側の企業は、学習済みAIだけではなく、対企業のためのプラットフォームビジネスを加速させていくと考えられる。このような流れの中で、今後重要になってくるのは、先ほどの2つ目の理由にも挙げた、AIを利用する側の専門家のスタンスである。
4.AI利用者の今後のスタンス
先ほど、プラットフォームが提供されれば、プログラマーは必要ないと述べたが、これはあくまで理想論である。というのも、誰でも使えるといっても、どのようなデータを与えて学習させるか、解析結果をどのように判断するかということは、最終的に人間の判断にゆだねられるからである。
この「判断を行う」人間は、今のところまだ出てきていないように思える。プラットフォームの提供側も、提供先企業の分野に関しては素人であるし、企業側(製造業、インフラ、建設業、エネルギーなど)もAIやデータサイエンスについてはまだまだ知見不足であるからだ。
お互いが知見不足である領域は、頭のキレるコンサルタント的な人にとっては非常に魅力的な市場になってくる。社内においても社外においても、学習ロジックを構築したり、データを分析できる人は今後間違いなく重宝される。
つまり、プラットフォームを提供する側の企業は、ある程度美味しい業界の専門家を雇ってコンサルまで行うともできるし、プラットフォームを利用する側の企業は、早急にデータ分析できる自社の人間を育てる必要がある。さもなくば、データ分析は全て外注に頼ることになり、競争から取り残されてしまう恐れがある。
5.教育者として思うこと
今後コンサル脳を持っている人材が、企業で重宝されるということを書いたが、コンサル脳というのは、ある程度学歴に比例すると思っている。データ解析には数学の知識が確実に必要になってくるし、企業においては、その解析結果や機械学習のロジックを説明するための国語力だって必要だ。べつに全ての人がコンサル脳になる必要もないのだが、これからの時代に重宝されることは間違いないと思う(もちろん、これまでも重宝されてきたのだろうが、今後はこの流れが加速すると思う)。
前回の記事「棋士:藤井聡太氏のニュース記事から考える一般常識と専門知識の境界線 」でも書いたが、ある程度のデータ解析や数学の力というのは、確実にこれからの一般常識になっていく。「受験勉強なんて必要ない」と言っている人の気持ちも分からなくもないのだが、そうはいっても受験は必ず通る道である以上、受験勉強の中で何を学ぶか、どう社会で応用していくかというのを考えながら学習することが不可欠である。また、そういうことを教えてくれる教師が今後増えていけば良いなと思う。
棋士:藤井聡太氏のニュース記事から考える一般常識と専門知識の境界線
最近ニュースを賑わせている藤井氏。棋士としての実力はもちろん素晴らしいが、その言動にも注目が集まっている。その中で、彼の語彙力を取り上げた某ニュースがあった。
その記事は、彼のインタビューでの中学生らしからぬ語彙力(「醍醐味」、「僥倖」、「望外」など)を取り上げられており、彼の担任の先生もまた、「僥倖」の意味について調べたなどという内容が書かれていた。
この記事に対するリアクションとして、こんなコメントがあった。
「最近の若者は僥倖も知らないのか」
「『忖度』って言葉だけで世間が騒ぐなんてなげかわしい」
「これだからゆとりは」
とりあえず福本先生の漫画を読むべき。ということは置いておいて・・・。
確かに国語の先生(記事中には担任としか標記がなかった)や新聞記者は言葉の専門家なので、知っていないとおかしいと思うが、これを以って「最近の若い者は忖度や僥倖も知らない」「これだからゆとりは」と一般論で世間を見下すのは些か乱暴な気がする。
学ぶことなんて専門分野や時代とともにそのプライオリティが変わっていくもので、「忖度」を知ってる知識人と、VRとARの違いを説明できたり、デジタル機器を使いこなす最近の若い子だったら、後者の方が圧倒的に社会的価値が高いと思う。
もちろん両方知ってるのが一番いいんだけど、醍醐味はともかく、忖度なんて使ってる人間、何人いるんだと(知ってはいても、その使用頻度も少ない)。今の子からすれば、忖度、僥倖とチョベリバ(死語)の違いなんてない。
70億人もの人がいて、小さな島国のほんの一握りの人間が使ってる言語よりも、今の時代はデジタルリテラシーを一般常識にすべきだと思う。人間の学びの時間や、脳のメモリーが有限である以上、どこまでが一般常識で、どこからが専門知識なのかというのは、今後線引きが変わっていくのではなかろうか。あと、使わないだけで中学生でも醍醐味くらいは知ってると思う。笑
誤解が無いよう付け加えておくと、忖度、僥倖なんて知らなくていいじゃんと言ってる訳ではない。「一般常識」をどこまでに設定するかという問題である。昔より今の子は学ぶことが多んだから、もう少し多面的に評価して、見下すのではなく、知らないことはちゃんと教えるというスタンスでいきましょうということ。
脳はコンピュータと違って、使わないものは忘れていくんだから、一度習って忘れたってことはいらないってこと。そもそも習っていないのかもしれない。
学校のテスト採点に関する議論が的外れだと感じる件について②
昨日学校のテスト採点に関する記事についてブログを書いた。
【元記事】
【昨日のブログ】
http://athrilleducation.hatenablog.com/entry/2017/04/11/202248
授業の合間に急いで書いてしまったのと、自分で読み直してちょっと伝わりにくいかなと感じたので、追記しようかなと思った次第。
元記事では、学校の算数のテストで、かけ算を習っていない学年の生徒がかけ算を使ってしまい、誤答とされているのはおかしいという論調で書かれている。それについて昨日の記事では、採点根拠をしっかりと書かなければならないということを書いた。
言いたかったこととしては、「習ってないことを使って正解を導きだしたのに間違いにするのはおかしい」という世論に流され、「じゃあこれからは習ってない方法で解いても正解にしちゃおう!」という単純な思考に走らないでほしいということだ。
そんなことをしてもまったく意味がない。私の個人的な考え方としては、教育というのは正しい、正しくないというよりも、首尾一貫していることが大切だと思うからだ(なぜなら、「この教育が正しい」ということを定義づけることができる人なんていないと思うから)。でなければ、感受性豊かな子供達は混乱してしまう。
私個人としては、"受験勉強では終わらない社会で活きる力を養う"ということを謳っている以上、社会に出たときに混乱しないような教育をすべきであるし、せっかく頑張った勉強であるから、その経験が社会人生活に活かすことができれば良いと考えている。そのためには、テストといえど、その考え方には社会に出たとき同様の一貫性がなければならない。
では今回の例は社会のどのようなところに当てはまるのか。発注者と受注者間の仕様書を考えてみれば分かりやすいのかなと思った(ビジネスマン以外には逆に分かりにくいか・・・)。
仕様書というのは、発注者が業務を発注する際に、「こんな条件で業務をお願いします」という条件を記述したものであるが、テストで言うと、先生が生徒に対して仕様書を出して業務を発注するという具合である。例えば納期は50分、回答欄に収まるように記述すること、などのような条件がテストという仕様書には書かれている。
もちろん納期が過ぎれば減点の対象であるし、そもそも納期後は作業すらさせてもらえない。回答が適用可能な仕様を満たさない場合、規格外とされても文句は言えないのである。
元記事の例でいうと、足し算で解かなければならないということは、仕様書には書かれておらず、ゆえにそれを規格外とするのは発注者である先生のミスなのである。「暗黙の了解」として習ったものしか使ってはならないなどと言うのは、社会に置き換えた場合は通用しない。
では先生は今後、習っていないものを使って解くのは正解にすれば良いのかということは、冒頭でも書いたが、よく考えなければならない。前記事でも書いた通り、公教育の先生は、自分が教えたことが生徒に理解されているかということを確かめる義務がある。でなければ、公教育の意味がない。なぜならば、点数や単位を与えたり、卒業させたりというのは、その子がそのレベルに足る“理解を得ている”ということを保証するものであるからだ。
このような理由から、前記事ではこの問題においては、問題文に「ただし学校で習った方法で解くこと」という一文を加えるべきだと結論づけた。
さて、これらのことを考慮した上で仕様書の話に戻ろう。今度は、先生がテストに「ただし学校で習った方法で解くこと」と書いたときを考えてみる。これを書くと、生徒は自由な発想ができないではないか!となるかもしれないが、前記事では、制限のある中で課題にアプローチするということも必要であるし、問題文をきちんと読んで理解することも重要だということを書いた。
では、生徒は折角予習したかけ算が使えないのか、と言われればそうでもない。これも先ほどの発注者と受注者の関係で考えてみる。発注者が制限をかけた条件の中で、受注者がそれに逆らい、より良い業務を遂行した場合である。この場合、問題となるのは受注者、つまり生徒側のリスク管理である。
受注者側としては、それがいかに効率的な業務であっても、仕様書条件に逆らっている以上、発注者側の制限条件の都合(この場合、先生が教えたことを理解しているかということを、テストで確認すること)で規格外とされても文句は言えないのだ。しかし、仕様書通りの条件で、納期内(テスト時間内)にかけ算と足し算の2通りの案を示すことができれば、発注者である先生はもしかしたら認めてくれるかもしれない。このように、生徒側の心持ちでチャレンジすることはできるということだ。
逆に、これでバツになったからといってしょげてしまうようでは、どのみち将来大成はしないだろう。厳しいかもしれないが、子供ながらの意見で良いので、先生に意見をしに行くくらいのことはしてほしいと思うし、私個人としてはそのディスカッションこそが社会でいきる力につながると思う。まわりの大人達は教育方針を評価するのではなく、子供達がしょげてしまわないように導いてあげることが大切だと思う。
※ちなみに元記事の子はちゃんと先生に意見しに行った模様。一番問題なのは、この時の先生の対応(暗黙の了解で、習ったことしか使ってはいけないという理由で誤答としたこと)である。
学校の先生と言えど、ここまでされたらさすがに正解にするとは思う。もしそれでも意固地に誤答とするなら、それが教育として不正解かどうかは分からないが、少なくとも私とは教育理念が合わない。
最後に、あくまでもこれらの意見は、私の教育における理念(社会で活きる力を養う)に当てはめた場合のものである。教育は千差万別で、普遍的な正解を導きだすことが難しいものであるからこそ、消費者の側にもどのような教育を受けさせるべきかということを、ご家庭の教育理念と照らし合わせて選んでもらえたら幸いである。
学校のテスト採点に関する議論が的外れだと感じる件について
【高校生教育】将来の夢を異世代の交流や社会体験の中で見つける(告知あり)
前回の記事では、「知らないものは夢にはなり得ない」という前提のもとで、スマートフォンが子供たちに与える影響や、リアル体験の重要性を記事にしてみました。
(前記事「スマホやゲームが子供たちの夢を奪う?」http://athrilleducation.hatenablog.com/entry/2016/05/10/221419)
PVがもの凄く伸びていたので、その後の考察を少し付け加えてみようと思います。そして、恐縮ですが最後に高校生向けイベントの告知があります。(特に広告のために記事を書いていたわけではないのですが、タイミング的に重なってしまいました。あしからず。)
学年による社会との関わり方の変化
さて、本日は引用できるデータを用いて分析してみましょう。前の記事でも述べた通り、知らないものは夢にはなり得ません。そこで、小学生、中学生、高校生それぞれの、社会経験の指標として「異世代との交流」と「ボランティア活動への参加」という二つの指標を見てみます。
【異世代との交流が「ある」】
小学生:72.1%
中学生:51.6%
高校生:46.5%
「子どもの育ちをめぐる現状等に関するデータ集」(文部科学省)(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/053/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2009/03/09/1236114_3.pdf)をもとに著者作成
【ボランティア活動等への参加が「ある」】
小学生:41.1%
中学生:30.6%
高校生:15.9%
「子どもの育ちをめぐる現状等に関するデータ集」(文部科学省)(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/053/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2009/03/09/1236114_3.pdf)をもとに著者作成
もちろん、上記の2つだけがリアルな社会経験の指標というわけではありません。しかし、学年が上がるにつれて、世代間交流や、地域間交流が少なくなっている目安にはなるかと思います。夢に近づいていく年代の高校生の方が、バーチャルの世界に入り浸り、リアルな社会体験の機会を失っているとしたら、もったいないですね。
学年が上がるにつれて社会経験の機会が喪失している理由
社会経験の機会を妨げている原因は何でしょうか。おそらく大多数の学生は「時間がないから」と答えるでしょう。学年が上がるにしたがって、受験勉強も過酷さを増していきます。しかし、これは今も昔も同じことです。では、今と昔で異なる、時間を奪うものとはなんでしょうか。
この時間を奪っているものこそ、前の記事でも述べたスマートフォンなのではないでしょうか。文部科学省開催の「中高生を中心とした子供の生活習慣づくりに関する検討委員会」において以下のような整理がなされています。
以下「http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2014/03/31/1346112.pdf」より引用
ー中高生になるとスマートフォンを含む携帯電話の所有割合が急増し、インターネッ トとの接触時間についても急増するというデータがある。インターネットの長時間 の利用は子供の生活習慣や学習に悪い影響を与えているという指摘がある。ー
ー生活習慣と学力等との関係については、規則正しい生活習慣が身に付いている子供 の方が、学力調査の平均正答率が高いという相関関係があり、インターネットの利 用時間と学力調査の平均正答率との相関関係では、全く利用しない子供より1時間 未満利用する子供の方が、平均正答率が高く、1時間以上の利用については、接触 時間が長くなるにつれて平均正答率が低下する傾向にある。ー
インターネットの時間がそのものが「時間を奪う」ことになっていることも確かですが、インターネットへの接触時間が長くなることで、勉強の効率が低下し、結果的に長時間の勉強を要している可能性もあります。
スマートフォンが悪というわけではない
もちろん、スマートフォン自体が悪というわけではありません。スマートフォンは確かに便利ですし、使いこなせば武器になります。しかし、その有用性を理解せず、ただ単に買い与えるだけになってしまってはもったいないと思います。
スマートフォンを使った調査方法やマーケティング方法などを、リアルのケースを通して学べる場があれば良いですね。
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スマホやゲームが子供たちの夢を奪う?
夢を持てない子供たち
「将来の夢は何ですか?」と聞いたときに、どれくらいの子供が自分の夢を語ってくれるのでしょうか。小学生から高校生を対象にしたある調査によると、将来なりたい職業があると答えた学生は6割程度だったといいます。しかも、この数字、2004年から2009年の間では全体で約1割程低下しているのです。(高校生においては約16%も減少しているのです。)
夢を持てなくなってしまった原因
ではなぜ、夢を持てない子供たちが増えてしまったのでしょうか。同調査において面白い調査がありました。先ほどの「将来なりたい職業があるか」という質問の結果と共に見ていきましょう。
・将来なりたい職業があるか?(「ある」と回答した割合)
【2004年】 小学生:約63% 中学生:約62% 高校生:約67%
【2009年】 小学生:約58% 中学生:約52% 高校生:約51%
【比較】 約5%減 約10%減 約16%減
・ゲームをする時間(「ほとんどしない」と答えた割合)
【2004年】 小学生:約36% 中学生:約55% 高校生:約81%
【2009年】 小学生:約26% 中学生:約35% 高校生:約58%
【比較】 約10%減 約20%減 約23%減
いかがでしょうか。綺麗にとは言えませんが、両者には相関関係がありそうですね。
ここで「ゲームをすると夢を持てない」と結論づけるのはやや乱暴ですが、今後分析するに値する結果だと言えます。
夢を持たない弊害
「夢なんか持ってなくても困らない」、「そのうち大人になってから夢を決めれば良い」というご意見もあるかと思いますが、果たして本当にそうでしょうか。夢を持たないということは、目標(ゴール)がないということと同義です。ゴールが見えない努力ほど頑張れないことはありません。また、何を頑張れば良いのかが分からないわけですから、当然、効率も悪くなってしまい、さらに努力することが嫌いになってしまうという悪循環に陥ってしまいます。
夢を持たせるには
皆さんは将来の夢をどのように決めましたか?覚えていない方もいらっしゃるかと思います。ただ一つ言えることは「知らない職業は夢にはならない」ということです。小学生の夢にはサッカー選手、芸能人、最近ではyoutuberなど、身近に知ることができる職業がほとんどです。小学生の将来なりたい職業ランキングで「商社マン」なんて出てこないですよね?つまり、周りの大人達とのコミュニケーションや実体験をとおして、リアルな世界を知り、夢の選択肢を広げてあげれば、自分の夢に出会う確率も増えていくわけです。
まとめ
スマートフォンやゲームの世界に入り浸るということは、それだけリアルの体験の機会が失われるということです。友達同士のコミュニケーションですら、リアルにできる機会が減ってしまいます。子供が勉強をしない、だらだらしている、と嘆いている保護者の方は、スマートフォンが子供たちに与える影響をもう一度考え、リアルの体験の機会を増やしてあげてはいかがでしょうか。